失語症者のその後

岡山市南区 岸田茂樹

くも膜下出血+失語症を発症したのが8年半前、当時53歳でした。その後、言語リハビリ一色。早く復職したいと焦る中、なかなか思い通りにならなくて、悩み、苦しんだ日々でした。一度は復職しましたが、これでは役に立たないと退職し、岡山失語症友の会コスモスを始めました。

言語リハビリを卒業した後は、個人的に失語症対策を実行しました。言語リハビリは基礎、その後の自主トレが大事です。 しゃべる言葉を事前に心の中で予行練習しました。現在もやっています。突然しゃべると今もうまくいきません。 複数で会話する際は、内緒で録音しています。主語を聞き漏らすことがよくありますので。 失語症になった後、しゃべったことのない語彙は、できるだけメモしました。例えば、ひしめく、抜きん出る、肌寒い、たしなみ、やぶさかではない・・・など、たくさんあります。 自ら振り返ってみると、冗談がわからなくなった、片足で立てなくなった、カラオケで音程変更についていけない・・・など。加齢によるものかも知れませんが。 今、意識しているのは、慣用句の使い方を憶えることです。ここからはまさに勉強して身に付けるしかないと理解しています。

3年半前、伊澤先生と一緒に、岡山失語症友の会コスモスをスタートしました。失語症なんて知らなかったし、自分が当事者になり、伊澤先生に教えてもらって、そういう人がたくさんいることを知りました。それで会社を辞め、ビジネスをあきらめて、友の会活動に向かいました。
コスモスが当事者・家族で60人に増えた背景とは、
1 「岡山失語症友の会コスモス」という名称を決めたこと
2 岡山リハビリテーション病院の一室がコスモスの事務局になったこと
3 会員50人という目標を決めたこと
の3点があったからではないでしょうか。
コスモスは創業期から成長期に変わろうとしています。NPO設立と失語症作業所のスタートです。本格的に雇用支援事業に向かおうと考えています。

今日はコスモスのバス旅行です。参加者36人。兵庫県三田市にある失語症作業所の見学と、世界遺産の白鷺城に旅行です。
仲間との旅は最高のリハビリです!

与えられたものには意味がある

岡山市東区
立花奈緒美

私が脳梗塞になったのは、今から1年10か月前の43歳の時でした。
構音障害と失語症という診断をいただきました。
なんで私がこうなったの??と、自分を受け入れるのに難儀しました。

入院2日目、なんだか言葉が浮かばない。自分の名前がなんとか言える程度。
浮かんできても口に出そうとすると消えていく感じ。この状態を誰かに伝えようと思っても、伝えることが出来ず、只々出てくるのは涙だけで、頭は朦朧とし、頭の中が凍りつく感じでした。いつものおしゃべり好きな私ではなかったのです。
そして、本を読もうとすると文字を追っても内容がまったく頭に入ってきません。内容がスルスルと滑り落ちていく感じがしました。でも読むのをやめませんでした。

そんな折、主人がこんなブログ見つけたよ、と言ってアナウンサーの沼尾ひろ子さんのブログを見せてくれました。そのブログには沼尾さんの生活、リハビリ、どうやって3か月でアナウンサーの仕事に復帰できたのかということが書いてあり、とても励みになりました。
脳解剖学者であるジル・ボルト・テイラー博士の書いた「奇跡の脳」は37歳で脳卒中にみまわれ、その後8年間にわたる自叙伝で、8年たっても脳は進化していくのだと希望が見えてきます。

途中外泊中に再発。右腕が麻痺したこともありましたが、入院は26日間で、リハビリには週1で通うこということで無事退院できました。
毎日、新聞のコラムを音読すること、リハビリの先生にアイデアを頂いた小学校6年の問題集をとくこと、口の運動をすることを日課としました。あとは週4回の鍼治療と家事全般です。

退院して1か月位は人に会うのが嫌でふさぎ込んでばかりいました。こんな状態の私がばれてしまうのを恐れて友だちが来ても居留守を使ったりしていました。でもこのままではリハビリにならないと思い、人の集まる所には勇気を出して出向くようにしました。思うように話せなくても友達は聞いていてくれます。自己嫌悪に陥ることもしょっちゅうです。しかし事実は事実なのだから・・と自分を奮い立たせ、前向きに、良くなってはまた悪くなり、でもまた良くなる・・を繰り返しながら、右上がりのらせん状を描いて、徐々に良くなることを願っています。

退院から2か月で仕事に復帰しました。復帰といっても勤務は実家の不動産屋です。事務はどうにか出来ても言葉はまだまだといった状態でした。特に怖かったのが電話の応対です。こちらからはどうにか話せても、向こうからの質問には答えることができず歯がゆい思いをしました。
父母はそんな私をあたたかく見守ってくれています。母にはその日あったことを聞いて貰うのが日課となり、よいリハビリとなっています。

今の病気になって思うことは、人生に与えられたものには何かしら意味があるということ。その気づきを、前向きに現実にしていかなければなりません。
そして感謝です。私の全てを受け入れてくれた主人、投げやりな私を正してくれた家族、私は私でいいよと気づかせてくれた周りの人たち。
この想いを何かの形でお返ししていきたいと思います。

岡山市東区 立花利章

妻が脳梗塞を発症したのは、2012年6月26日のことでした。
私が出張のため、玄関で見送りをしてくれた姿に何故か胸騒ぎがしたことを鮮明に覚えています。出張先から妻に電話をしたところ、明らかに言葉がおかしい。本人に意識はありますが、これは尋常ではないということがすぐにわかりました。義理の母から、病状について連絡がありました。「脳梗塞」、ある程度予測していましたが、その言葉を聞いた瞬間に愕然としました。
翌日急いで戻ると、泣きじゃくりだしました。本人としては、「なぜ私が病気になったのか、今後どうなるのだろう」といった不安で一杯だったのでしょう。
先生からは症状の詳しい説明と後遺症が残る可能性があるものの、今後の治療やリハビリの効果を信じて頑張っていきましょうといった励ましの言葉をいただきました。
入院当初も急に泣くことが多かったのを覚えています。ある意味しゃべることが趣味(特技?)と言える彼女でしたので、「言葉が浮かんでこない」、「発音もままならない」、「記憶に残っていかない」、「計算ができない」といった症状や右手の麻痺は苦痛以外の何ものでもなかったと思います。
でも彼女の毎日の頑張りは、面会するたびにわかりました。私でしたら、あのようにはいかなかったでしょう。私も負けないようにできることをやろうと決めました。家庭のことが心配でしたが、お互いの両親が助けてくれて何とか回すことができました。
先生や看護師も実に親身になってくれ、本当にお世話になった方々に感謝しています。
症状も少しずつ回復し、泣き顔も減ってきまして、おかげさまで退院することができました。やはり家に彼女がいるのといないのとでは天地ほどの差があります。彼女がいることで安心と明るさを感じることができます。
家に戻ってからも昔以上に本を読み、新聞の記事を声に出して読み、またいろいろな集まりにも積極的に参加しています。本人としては、まだまだもどかしさもあると思いますが、今では知らない人が見れば病気のことは気づかないくらいまでになりました。照れくさいのであまり口には出せませんが、尊敬の念で一杯です!
細心の注意は必要ですが、回復に限界はないと信じ、いろいろチャレンジしていってもらいたいと思っています。
病気を通じて、お互いの知らなかった面も知ることができました。これからも一緒に話し、いろいろな所に行き、多くの体験をしていければいいなと思う今日この頃です。

いつも笑顔でいて下さい

岡山市中区 織田明里



岡山市中区 織田明里

脳出血で倒れて4年の月日が経ちました。入院中に会社は解職となり、退院後は毎日自宅でリハビリを続けています。 今では、日常会話は支障なくなり、簡単な計算もでき、右腕はまだ不自由ですが、杖なしで1qくらいは歩行できるようになりました。 そして、好きな海外旅行にも行けるようになりました。今年6月に「コスモス」に入会し、「女子会」で女性どうしの交流もあり、共感できる仲間ができて、楽しく過ごさせてもらっています。
 下記の文章は、私が倒れた直後の様子を、夫が綴ったものです。私はこれを読むと当時の気持ちがよみがってきて、正直あまり好きではありませんが…

「いつも笑顔でいて下さい。顔で笑って心で泣いて下さい。ほんの少しだけ先輩からの一言です」これは妻の日記の一部です。
 妻は昨年11月、脳内出血で倒れ、言葉と右半身の自由を失いました。命が危ぶまれた状況をどうにか脱して3カ月、リハビリによって、 順序立った説明は苦手なものの、日常会話はほぼでき、杖を使って少し歩き、左手で箸を使い、鉛筆をにぎって漢字が書けるまでに回復しました。
 ここまでの道のりは、順調ではありませんでした。術後から投与されているケイレン抑制薬があわず、副作用で40度の熱が一週間続き、 皮膚が腫れるほどの湿疹が全身を覆い、肝機能も低下して、体力の落ちている身体をさらに痩せ衰えさせました。 それが落ち着いたと思ったら、次には、両足に眠れないほどのしびれが出、今は右肩の強い痛みに苦しんでいます。
 昨日まで元気に働いていた身体が、気がつくと突然動かず、口もきけない。自分はどうなるのだろう、このままこの状態で生きていかなくてはならないのか。 絶望が襲います。早く良くなりたい、以前の身体に一日でも早く戻りたい。気持ちは焦ります。 しかし、どんなに頑張ってもリハビリの成果は思うにまかせません。気持ちが萎えたり、心が折れそうになります。
 でも、彼女は負けませんでした。自分を振るい立たせ、今の状況に立ち向かうために、笑顔で生活しようと思いました。 病院スタッフに対し、病棟の患者に対し、明るい笑顔で接しました。「その笑顔に癒される」と病院スタッフから言われる程に。 もちろん、その笑顔が歪むこともあります。私の手を見ながら「なんで私の手はそんな風に動かないんだろう」と言って、声を出して泣いたこともありました。 でも、泣くだけ泣いたら、「ファイト!」と左手で拳を握って、また笑顔を取り戻すのです。
 ある日の事です。彼女が使用中のトイレを待っていると、涙を流しながら車椅子の女性が出てきました。 妻には、その女性の涙の訳が理解できました。自分と同じです。悲しみにうちのめされているのです。
 冒頭の文章は、言語リハビリで宿題となっている日記に、その夜何度も涙をぬぐいながら左手で綴ったものです。 あの女性に対し、負けないで、笑顔で頑張ってとエールを送ったのです。そして自分自身に対しても。

失語症のおかげで新しい出会いがありました

岡山市南区 岸田茂樹

今から6年前、53歳でしたが、仙台で倒れました。 くも膜下出血で、その後、後遺症の“失語症”になりました。 当時の仕事は、セールスプロモーション会社の営業部長で、札幌・仙台・岡山・福岡の営業所を管轄し、自宅は岡山市でした。 出張中に倒れたのです。仙台での手術・入院に、妻は1ヶ月半仙台で生活し、娘・息子も休みの時は仙台に来てくれました。
 ICU後、岡山リハビリテーション病院に転院しました。STの先生とお会いした時は、全く喋れない状態でした。 自分の名前も、家族の名前もわからない状態でした。それから言語リハビリの毎日でした。 午前は足立先生と、午後は伊澤室長にリハビリをお願いし、そのおかげで徐々に喋れるようになっていきました。 リハビリ一色の毎日でしたが、その中で失語症の人との出会いがありました。 月1回、失語症患者による座談会を開いていただき、(失語症の)先輩の喋りを聞いていて「先輩のように喋りたい!」と強く思いました。 私にとって“目標”になりました。
 発症して1年半で仕事に復帰しました。東京本社で、総務部長として復職しました。 岡山から妻と猫2匹で上京し、平日は仕事を、土日は言語リハビリに通いました。しかし、半年で岡山に戻りました。 復帰してわずか数カ月で、「これでは会社に貢献できない」と感じていました。 社員と面談してもうまくコミュニケートできず、会議ではスピードについていけず取り残されていました。 忸怩たる思いでした。改めて岡山営業所に戻り、仕事をしつつリハビリを続けましたが、この先どうすればいいのか全く見えなかったのです。 失語症になってビジネスでは役に立たないとわかった時、本気で「死んでしまいたい」と考えていました。
 そういう中、足立先生からアドバイスをいただきました。「日常会話はある程度できています。 でもビジネスの世界では100%の仕事を求められます。50%の仕事が80%に伸びたとしても、その差20%が大きいのです。 伸びていないと思ってしまうのです。でもあなたは着々と良くなっていますよ!」 この言葉は、苦しんでいた私にとって、勇気を与えてくれました。 仕事ができず、このまま消えていくのかと思いましたが、小さな明るい未来が見えたような気がしました。
 ある日、伊澤先生から「失語症の後輩たちに助言をやってくれないか」と言われ、「私にできることがあればお手伝いします」と答えました。 リハビリの前後の時間を使ってお話ししたり、時間がある時は食事や喫茶店でもお話しを続けました。 失語症の先輩にしていただいたように、私自身が感じていたことを後輩たちに伝えました。そういうことを通じて、やりがいを感じ始めていたように思います。

 人は、生きててなんぼ。生きていなければ始まらない。失語症になって苦しみましたが、そのおかげで新しい出会いがあり、 全く考えもしなかった新しい仕事ができそうな予感があります。
 現在、勤めていた会社を退職し、伊澤先生と一緒に“失語症友の会コスモス”を始めました。 いずれは『就労復職支援ネットワークコスモス』という非営利法人の設立を目指しています。 コンセプトは“岡山の失語症の人たちが集まれる場所+雇用支援事業”です。 STの先生と失語症の先輩のおかげで、後輩たちのために私ができることを実現したいと思います。
 人間は“倒れたままではいられない”のです。